あるいは本でいっぱいの海

Or All the Seas With Books

主に書評ブログ。本、音楽、映画について書きます。

ホトトギスの空(『坂の上の雲』司馬遼太郎)

まことに小さな国が、開化期をむかえようとしてる。

 文春文庫出版の全8巻からなる大作であり、司馬遼太郎の代表作。明治維新から日清戦争日露戦争までを描く長編歴史小説です。

 物語の中盤以降は全て日露戦争についての描写であり、登場するあらゆる人物や出来事について隅々まで記述しています。まるで実際に現場を見て来たかのような詳細な文章からは、どこまでが本当でどこからが想像なのかさっぱり見分けがつきません。

 作者の司馬遼太郎さんは、一つの小説を書くためにかなり膨大な資料から情報をインプットする、という話を聞いたことがあります。それはよいとしても、日露戦争のロシア側の中将の戦艦の中での過ごし方や、ロシアの皇帝の口癖なんて、どうやって調べたらわかるものなんでしょうか。

 

 伊予松山藩(現在の愛媛県松山市)の出身の3人の青年を中心に小説は進みます。秋山好古と真之は兄弟であり、真之と正岡子規は幼馴染です。

 

秋山好古日露戦争で陸軍騎兵部隊を率いた人物。「日本騎兵の父」と呼ばれる

秋山真之日露戦争海戦の参謀を務めた

正岡子規:明治を代表する俳人

 

 物語序盤は彼らの青春記とも言えます。彼らは、将来ビッグになってやろうと故郷の伊予松山から上京します。好古は実家の貧しさから学費のかからない師範学校へ入学し、軍人の道を目指します。真之と子規は共に文学の道を歩もうと誓うものの、真之は海軍学校へ進むことになりました。彼らは各々別の道へと進み始めるのです。

 日清戦争では、軍人である好古と真之だけではなく、正岡子規も自ら志願し、軍記者として戦地に向かいます。しかし、持病の結核が悪化してしまいすぐに帰国することになります。当時は結核は不治の病の類であったそうで、自分の命がそう長くはないと悟った子規は、文学により一層の情熱を注ぎます。

 児玉源太郎東郷平八郎山本権兵衛大山巌乃木希典といった、日露戦争を語る上で欠かせない人々についても詳細に描かれています。当然のことなのかもしれませんが、物語の中盤からは彼らが主役であったと言ってもよいでしょう。

  

坂の上の雲』における正岡子規について

 正岡子規について予備知識はほとんどなく、国語の便覧に載っている横を向いた人、結核で若くして亡くなった俳人、くらいの認識でした。

 彼は34歳という若さでこの世から去ることになります。文庫本だと3巻の途中です。それでも私は、この『坂の上の雲』は正岡子規の物語であると思っています。

 先日、大の司馬遼太郎ファンの方とお話しする機会があったのですが、正岡子規のパートよりも日露戦争パートが好きと言っていました。捉え方によっては、この小説のメインパートである日露戦争には直接関わりのない俳人を主人公の一人としていることには違和感があります。

 しかし、作中における彼の存在こそが、この小説を、戦記物の枠を超えた近代日本を描く傑作たらしめている気がしてならないのです。

 そして、後の日露戦争の長い描写があるからこそ、正岡子規の短い一生が際立つのだと感じます。

 

坂の上の雲の由来

 この小説のタイトルについて、あとがきでは

のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。 

 と書かれています。

 当時の人々が持つ、何事もやるからには日本一、といった楽天的で明るい雰囲気が感じられました。彼らが坂の上の雲に届くかどうかはわかりません。しかし、少なくとも空は晴れ渡っているようです。

 今の日本は、坂の上の雲には届いたと言えるのでしょうか。当時のように空は晴れ渡っていないようにも思えてしまいますが。

  

 この作品の大部分を占める日露戦争の部分について、書こうとすればキリがありませんが、今回はこれくらいで。

生活とバッタのあいだ(『バッタを倒しにアフリカへ』前野 ウルド 浩太郎)

 とうとうこの本を読みました。長い期間、本屋の新書コーナーで平積みになっているこの怪しげな本。光文社新書デフォルトの表紙ではなく、緑色の変な格好をしたおじさんが虫取り網を持ってなにやらポーズを決めています。そもそも著者の「前野 ウルド 浩太郎」とは一体何者なのか!?

 

 こう見えても?彼は、博士号を持った研究者なのです。とは言うものの幼い頃からのファーブルへの憧れから昆虫学者を目指して修士、博士課程を卒業した段階。いわゆるポスドクという身分です。

 

 数年任期の研究職を転々としていく雇用形態は非常に不安定であり、ポスドク問題と呼ばれています。任期がある以上、次の職にありつくためにも常に結果を残し続けていく必要があります。

 著者の前野さんは

「昆虫学者」とは、昆虫の研究ができる仕事に、任期付きではなく任期なし(パーマネント)で就職することだ。

と書いています。

 研究者(それも、その研究成果が社会の利益に直結するとは言い難い基礎研究分野の)を悩ませる問題の一つとして、その研究が社会の利益に直結しにくいこともあって予算確保が難しいという問題があります。

 

 著者の研究対象である、バッタの大群による被害というのは、言葉ではわかってはいてもほとんどの日本人にとってはいまいちその重大さがいまいちピンとこないことだと思います。また、国内では研究室の中で飼育されているバッタの実験や観察が主であり、現場でのフィールドワークによるバッタの大群の研究はあまりなされていませんでした。

 

 これは良い研究題材になる、と著者は20倍もの倍率から勝ち取った若手研究者支援金を使ってアフリカのモーリタニアという国に渡ったのです。

 

 文化も気候も異なるモーリタニアで数年生活するのは覚悟のいることです。そこまでして著者をバッタの大群の研究に向かわせる原動力は、

 子供の頃からの夢「バッタに食べられたい」

にあります。

 これは、著者が子供の頃に科学雑誌で読んだ記事が関係するそうです。外国でバッタの大群に巻き込まれた女性が、バッタに着ていた緑色の服を食べられたことを知り、憧れと恐怖を抱いたことがきっかけだそうです。飛躍し過ぎている気もしますが(笑)

  

 モーリタニアでの生活や研究活動は一筋縄ではいかないものでしたが、著者も生活がかかっているわけですから諦めません。

 バッタの大群に会うために何百kmという距離を移動したり、地元の子供達にバッタを集めてもらおうと企んだりなどと、研究成果を出すために試行錯誤する様子が面白おかしく書かれています。

 

 終始明るい文調で書かれていますが、内心は研究成果を出すことへの焦りや、日本と遠く離れた土地での生活の孤独さも少なからずはあったと思います。同時に、大好きな昆虫の研究に集中して取り組むことができる環境や生活を心から楽しんでいる様子も伝わってきました。

 また、「ウルド」という著者のミドルネームについてのエピソードも作中で書かれていますが、バッタ研究者としての意思を強く感じることができます。

 

 著者の研究内容、モーリタニアでの生活、ポスドクをはじめとする研究者の生き方など、様々なテーマを含んだおすすめの一冊です。

マクスウェルの天使(『ユービック』フィリップ・K・ディック)

 ハヤカワ文庫出版のフィリップ・K・ディックの長編SF小説

 

 この物語は、ディック作品お馴染みの予知能力者(プレコグ)やテレパシー能力者といった超能力者サイドと、それらをを打ち消す力を持つ不活性者たちの対立が続いている時代の話です。

 そして、この小説における重要なポイントとして「半生命状態」があります。これは死者の肉体を冷凍保存し精神を維持させることで、生者との会話を可能とする状態です。

 反能力者を使って超能力を使った悪事対策を行うランシター率いる11人の不活性者たちが超能力者たちを倒すべく、月へ向かいます。ここから超能力バトルが始まるのか、と思いきや、到着して早々に、ランシター一向は爆発に巻き込まれてしまいます。敵方の罠に違いありませんでした。この爆発のせいで、ランシターは命を落としてしまいました。ジョーたちはランシターの亡骸を運び月から引き返します。

 

 そして、ここからがここからが物語の本当の始まりであると言えます。

 この事故をきっかけに、地球で奇妙な現象が起こり始めます。あらゆる物が古くなっていくのです。お金や新聞が何十年も前のものになったり、自分の写真が赤ちゃんの頃になったりと、あらゆるものが昔のものに形を変えていくのです。さらには、月から帰還した不活性者たちはが次々と原因不明の死を迎えていきます。

 

 やがてジョーは、時間の退行現象を防ぐための唯一の特効薬”ユービック”の存在を知るのです。爆発で死んだはずのランシターから、いろんな形でメッセージが届きます。

ジョーがいるこの世界は現実か、それとも幻想か?そして”ユービック”の正体とは一体何なのでしょうか...?

 

 ディックの長編作品には、物語の中盤から話の方針や前提といったものが一転してしまうものが多くあります。そのほかにも現実と架空の世界とが入れ替わってしまうことはもはや定番の出来事です。「ユービック」も例のごとく、「時間退行」が始まる前と後では話の趣旨が全くと言っていいほど違っています。

 

 退行現象が進み、あらゆるものが古くなっていく描写からダリの「記憶の固執」を連想しました。世界がその構造さえもふにゃふにゃになって溶けていくイメージです。

 溶けていかないためには自分の輪郭を正しく知ること、つまり、自分がいる世界を再認識することが必要であると考えています。そして、「世界の再認識=ユービック」を表すのではないでしょうか。

 

 本書解説にある「ユービックは反エントロピーを表す」という記載には(反エントロピーとは正しい言葉なのかどうかはわかりませんが)なるほど、と納得させられました。

 

 最後に、各章のコマーシャル風の文章が個人的に気に入っています。「ユービック」という一見一貫性のない傑作小説を無理やり一つの物語に繋ぎ止めているようにも感じられます。

恐怖!精神病院(『ドグラ・マグラ』夢野久作)

ドグラ・マグラ夢野久作(角川文庫)

 気軽には手を出せないような禍々しい表紙をしています。読者が表紙を見て選ぶのではなく、表紙が読者を選んでいるようです。果たしてこの本を売りたいのか売りたくないのか...地元の大きめの本屋に行くと、文庫本コーナーでは平積みで売られていたりします(笑)

 

 個人的な感想としては、背表紙のあらすじに書いてある割にはエロティシズムという印象はありませんでしたが、物語の複雑さ、後半になってその恐ろしい出来事の全貌が明らかになっていく展開には引き込まれます。表紙についてはともかく安心して?読むことができるのではないでしょうか。

 

 一体この小説は何かというと「自分が誰かを探る探偵小説」です。しかし、その著者も狂っているのです。正直これではもうお手上げです。

 

 主人公が病室のベッドで目を覚ますところから物語は始まります。隣の部屋からは助けを求めて女が叫んでいるようです。しかし主人公は思い出せません。ここが何処なのか、そして自分の名前さえも。

 

 やがて、自分が九州大学病院精神病科の治療室にいることがわかります。若林博士という九大の教授が主人公のもとに現れます。若林博士曰く、精神科学応用の犯罪に巻き込まれており、主人公は精神病の治療を受けているところでした。

 この事件を解決するためには、主人公の記憶を取り戻す必要があるようです。

 

 自分自身についての記憶を取り戻す手がかりにと、九大病院の精神病患者に関する資料室に入ります。そこには入院患者が自分が正常であることを示すために作った作成物(とは言うものの「歯茎の血で描いたお雛様の掛け軸」、「火星征伐の建白書」のような怪しげなものばかりです)や、彼らに関する研究資料が保管されています。

 主人公は『ドグラ・マグラ』というタイトルの原稿を見つけます。なんと、読者が手に取っている本と同じものであり、メタフィクションとなっているのです。

 

 その後、主人公はもう一人の研究者・正木博士が残した以下の資料を読むことになります。上巻の前半から下巻の途中まで続きます。

 

キチガイ地獄外道祭文

・地球表面は狂人の一大解放治療場

・絶対探偵小説 脳髄は物を考えるところに非ず

・胎児の夢

空前絶後の遺言書

・心理遺伝論付録

  

 スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ...というお経が延々と続く「キチガイ地獄外道祭文」や、正木博士の論文「胎児の夢」などバラエティに富んでいます。そして、これらの一見何を伝えたいのかわからない資料は物語の本質を知る上で非常に重要な役割を担っているようです。

 

 物語の後半になると急速に話が進みます。1000年前から続く狂人の伝説、正木博士と若林博士の確執、そして主人公は一体何者かという謎に迫ります。

 

 80年以上前に書かれたということが信じられないくらい独創的な構造をしており、今読んでも十分に楽しめる作品です。 ループものやメタフィクションなどの先駆けでもあると思います。

 

 話は逸れますが、愛宕神社(如月寺)や箱崎水族館(現在は同名の喫茶店があるようです)などの物語ゆかりの地に機会があれば行ってみたいと考えています。

 

「何も起こらない」が起こる(『ゴドーを待ちながら』サミュエル・ベケット)

不条理演劇」の代名詞にして最高傑作

と帯(白水社、安堂信也 高橋康也訳)で紹介されている、二幕構成の戯曲です。前半は延々と続くナンセンスな会話に戸惑いましたが、二部に入った頃にはすっかり癖になってしまいました。

 

 舞台は夕暮れの田舎道、一本の木が生えているところ。エストラゴンとヴラジーミルという二人の男がゴドーという人物を待っているところから始まります。

 

...というか、話はこれでお終いです。

 

 二人はゴドーに会ったことはなく、結局読者に対して、ゴドーが何者で、何のために待っているのかの説明はありません。

 

 やがて、ポッツォとラッキーという二人組がやってきます。なんとポッツォはラッキーを市場に売りに行く最中でした。ラッキーは「考えろ」と命令されると、何かが乗り移ったかのように何やら難しそうなことを、急にベラベラと話し出します。

 

 ポッツォとラッキーが去ったあとも、エストラゴンとヴラジーミルはゴドーを待ち続けます。男の子 がやって来て、「今日はゴドーは来ない。明日くる」という伝言をもらい、第一幕は幕を閉じます。

 

 そして第二幕。翌日、同じようにエストラゴンとヴラジーミルはゴドーを待っています。やがて、ポッツォとラッキーが登場しますが、少し様子が違います。なぜだかはわかりませんが、ポッツォは目が見えなくなっているのでした。彼らが去った後、昨日の男の子がやって来て...

 

 エストラゴンは何度もこの場を離れようとしますが、ヴラジーミルの「ゴドーを待つ」という言葉に無条件にと言ってよいほど従順に従う様子がいかにも奇妙です。このやり取りが何度も繰り返されるうちに、読者も徐々に違和感を感じなくなってしまいます。まるでカフカを読んでいるような感覚です。

 

 「ゴドーに会う」ことではなく「ゴドーを待つ」ことが彼らの人生なんだろうと感じました。ゴドーが来ないからといって、焦っている様子は全く見らません。もしゴドーが彼らの前に現れたとしても、彼らはそれからどうするかという考えは持ってなさそうです。

 

 解説にはゴドー=ゴッド(神)のもじりという解釈がある、と書かれていましたが、もっと身近な、誰もが持っているような、ささいな夢や願いごとでも当てはまるのではないでしょうか。

 何の変哲もなくただ時間が過ぎる様は、ブッツァーティの『タタール人の砂漠』に通じるものがあります。

 

 シュールでくすっと笑えるような場面もたくさんあります。ラッキーが「考えろ!」と命令され、急にベラベラと喋り出すシーンなど、まるでお笑いコントのようです。

 

 最初から最後まで、何か起きそうで何も起こらないという不思議な物語です。一度、舞台でも鑑賞してみたい作品です。