あるいは本でいっぱいの海

Or All the Seas With Books

主に書評ブログ。本、音楽、映画について書きます。

「何も起こらない」が起こる(『ゴドーを待ちながら』サミュエル・ベケット)

不条理演劇」の代名詞にして最高傑作

と帯(白水社、安堂信也 高橋康也訳)で紹介されている、二幕構成の戯曲です。前半は延々と続くナンセンスな会話に戸惑いましたが、二部に入った頃にはすっかり癖になってしまいました。

 

 舞台は夕暮れの田舎道、一本の木が生えているところ。エストラゴンとヴラジーミルという二人の男がゴドーという人物を待っているところから始まります。

 

...というか、話はこれでお終いです。

 

 二人はゴドーに会ったことはなく、結局読者に対して、ゴドーが何者で、何のために待っているのかの説明はありません。

 

 やがて、ポッツォとラッキーという二人組がやってきます。なんとポッツォはラッキーを市場に売りに行く最中でした。ラッキーは「考えろ」と命令されると、何かが乗り移ったかのように何やら難しそうなことを、急にベラベラと話し出します。

 

 ポッツォとラッキーが去ったあとも、エストラゴンとヴラジーミルはゴドーを待ち続けます。男の子 がやって来て、「今日はゴドーは来ない。明日くる」という伝言をもらい、第一幕は幕を閉じます。

 

 そして第二幕。翌日、同じようにエストラゴンとヴラジーミルはゴドーを待っています。やがて、ポッツォとラッキーが登場しますが、少し様子が違います。なぜだかはわかりませんが、ポッツォは目が見えなくなっているのでした。彼らが去った後、昨日の男の子がやって来て...

 

 エストラゴンは何度もこの場を離れようとしますが、ヴラジーミルの「ゴドーを待つ」という言葉に無条件にと言ってよいほど従順に従う様子がいかにも奇妙です。このやり取りが何度も繰り返されるうちに、読者も徐々に違和感を感じなくなってしまいます。まるでカフカを読んでいるような感覚です。

 

 「ゴドーに会う」ことではなく「ゴドーを待つ」ことが彼らの人生なんだろうと感じました。ゴドーが来ないからといって、焦っている様子は全く見らません。もしゴドーが彼らの前に現れたとしても、彼らはそれからどうするかという考えは持ってなさそうです。

 

 解説にはゴドー=ゴッド(神)のもじりという解釈がある、と書かれていましたが、もっと身近な、誰もが持っているような、ささいな夢や願いごとでも当てはまるのではないでしょうか。

 何の変哲もなくただ時間が過ぎる様は、ブッツァーティの『タタール人の砂漠』に通じるものがあります。

 

 シュールでくすっと笑えるような場面もたくさんあります。ラッキーが「考えろ!」と命令され、急にベラベラと喋り出すシーンなど、まるでお笑いコントのようです。

 

 最初から最後まで、何か起きそうで何も起こらないという不思議な物語です。一度、舞台でも鑑賞してみたい作品です。