あるいは本でいっぱいの海

Or All the Seas With Books

主に書評ブログ。本、音楽、映画について書きます。

それなら僕はやったかもしれない(『審判』フランツ・カフカ)

 岩波文庫出版の、フランツ・カフカの長編です。光文社古典新訳文庫では『訴訟』というタイトルで出版されています。私は岩波の『審判』しか読んでいないのですが、タイトルが違うだけでも全く違う作品のようですね。『審判』だと、主人公が裁かれることが前提になっている印象です。『訴訟』だと相対的にですが、わずかに判決に希望が残っているように感じられます。

 

 個人的には『城』と並ぶカフカの最高傑作であるこの作品は、理由も分からないまま逮捕された男が裁判にかけられる物語です。

 

 主人公ヨーゼフ・Kが急に自宅で逮捕されるところから物語は始まります。彼が30歳の誕生日を迎えた朝、急に二人の見知らぬ男がやって来ます。彼らはKに向かって「あなたは既に逮捕されていて、訴訟が始まった」と伝えます。しかし、Kには自分が逮捕される心あたりなどありません。

 

 逮捕されたと言っても、Kはいつも通りに会社で働き、自分の家で寝ることが認められていて、今までと同じように過ごすことができます。執行猶予のようなものみたいです。

 

 ある日、Kに電話がかかってきました。次の日曜日に審理が行われるというのです。当日、彼は会場の古いアパートに到着すると、演説台のあるホールへ連れられました。部屋にはなぜか、大勢の人々が待っていました。審理が始まると、Kは彼自身の置かれた状況や訴訟に関して不平を訴えます。しかし、彼の話を聞く大衆はみんな、Kの敵であることがわかるのでした。

  

 その後もKの周りには様々な人が現れます。その誰もが、彼の訴訟について知っています。よく分からないことが、分からないまま進んでいくのです。

 

 そして、話は急に飛んでラストシーンへ。この『審判』という作品、クライマックス部分は書かれているものの、未完の作品なのです。結末の内容には触れませんが、節々でそのような予感は感じられるものの、唐突なで残酷な印象を受けました。

 

Kが本当に罪を犯した可能性
 自分が何の罪を犯したのかさえわからないまま訴訟にかけられるという、まさにカフカ的(当然のことですが)で不条理な物語です。多くの作品に共通していることですが、登場人物たちは物事の本質について考えることはできないようです。

 『審判』においても、主人公Kは訴訟の理由にたどり着くことはできませんでした。Kの周りの人々は、まるでRPGの村人のように、決まったことしか喋りません。

 ふと疑問に思ったことがあります。「Kが本当に罪を犯していたのではないか」ということです。

 なぜなら、Kは訴訟の原因を積極的に突き止めようとしていないようにも見えるからです。彼にとって、本当の罪がバレてしまうよりは訴訟が長引いてくれた方が都合が良かった、という可能性もあるのではないでしょうか。あるいは、Kが自分が罪を犯したことを自覚していないというパターンも可能性としてはありますね。自覚のない罪というものもよくわからないものです。「原罪」を示唆しているようにも感じられます。

 まあ、カフカの世界において、そんなこと考える必要ないかもしれませんが。

 

掟の門

 物語後半の「大聖堂にて」という章で、以前このブログでも紹介したことのある『掟の門』が語られます。この挿話のあらすじは下の記事中でも書いています。

 

okserver.hateblo.jp

 『掟の門』 は物語を暗示しているようです。

 本当にKに罪があるのかどうかは別として、「訴訟」に向き合うのではなく、その奥にある原因に目を向ける必要があったのでしょう。門番は訴訟を暗示していて、所詮は表面的な問題だったのではないかと思います。

 

 『審判』はユーモア溢れる小説ですが、決して明るい話とは言えません。しかし、 主人公Kは、訴訟に巻き込まれるものの前向きな姿勢が見られます。「敵のトップを罰してやりたい」と思う場面もあるくらいです。どんな時でも、良くも悪くも前向きなカフカ作品の登場人物には不思議な魅力を感じます。