あるいは本でいっぱいの海

Or All the Seas With Books

主に書評ブログ。本、音楽、映画について書きます。

収束の日はいつか(『復活の日』小松左京)

 連日ニュースとなっている新型コロナウイルスによるパンデミック。個人ではできる限りの情報収拾と対策はしているつもりですが、罹患するのも時間の問題なのかと不安な気持ちが日に日に強くなっています。

 

こんな状況で思い出すのは、ハルキ文庫出版の小松左京の長編「復活の日」。奇しくも1964年の東京オリンピックの年に発表されたこの作品は、スパイによって最近研究所から漏洩した新型ウイルスによって、南極にいた1万人あまりの人々を除いた人類が滅亡してしまう、というSF小説です。

 

1969年2月はじめ、イギリスの細菌研究所で生物兵器として研究されていたMM-88菌がスパイによって持ち出されます。MM-88の由来はMartian Murderer(火星の殺人者)から来ており、宇宙から採取した物質に付着していたウイルスをもとに研究を重ねた結果、強力な生物兵器としての特性を持つようになった88代目のものです。

そして、スパイがMM-88を運ぶ小型飛行機がアルプスの山中に墜落してしまいます。やがて、春になると、雪解けとともにMM-88は地球上で猛威をふるい始めます。

世間では新型インフルエンザ「チベット風邪」と思われていた感染症によって、人々は次々と心臓発作で亡くなっていきます。飛沫感染接触感染といった、MM-88の感染拡大の方法は書かれていないものの、理不尽なほど凶悪な感染力です。

MM-88は分離することもできないまま、夏には南極にいる1万人を除いた人類は滅亡しました。
絶望的な状況の中、南極に残された人類は、「復活の日」を迎えることができるのか。人類存亡をかけた戦いが描かれます。そして、この小説における戦いの最後には、人類の歴史と科学の発展に対する皮肉も込めれらています。

 

新型コロナウイルスが収束するためには、もはやワクチンが開発されるか人口の大多数が免疫を持つようになるまで待つまでしかないのでしょうか。パンデミックがいつ、どんな結末となるのかは分かりませんが、少しでも早く収束に向かって欲しいものです。

ハッピーエンドのその後(『トイ・ストーリー4』)

7月12日上映の「トイ・ストーリー4」を観ました。前作「トイ・ストーリー3」が完璧なほど綺麗な終わり方でしたので、どうやって前作のハードルを超えて(またはくぐって)行くのか、楽しみな中での鑑賞でした。

 

【以下映画の内容に触れるため注意!!】

 

あらすじ

おもちゃの世界を舞台に描くピクサー・アニメーションの大ヒットシリーズ「トイ・ストーリー」の第4作。ウッディたちの新しい持ち主となった女の子ボニーは、幼稚園の工作で作ったフォーキーを家に持ち帰る。ボニーの今一番のお気に入りであるフォーキーを仲間たちに快く紹介するウッディだったが、フォークやモールでできたフォーキーは自分を「ゴミ」だと認識し、ゴミ箱に捨てられようとボニーのもとを逃げ出してしまう。フォーキーを連れ戻しに行ったウッディは、その帰り道に通りがかったアンティークショップで、かつての仲間であるボー・ピープのランプを発見する。一方、なかなか戻ってこないウッディとフォーキーを心配したバズたちも2人の捜索に乗り出すが……

トイ・ストーリー4 : 作品情報 - 映画.com

 

上記あらすじだけを読むと、いつもの「トイ・ストーリー」シリーズのように、ウッディが持ち主の一番のお気に入りであり、みんなのまとめ役であるかのように見えます。

 

しかし、今のウッディ達の持ち主はアンディではなくボニーです。ボニーもおもちゃを大事にする良い子ではあります。しかしアンディの時と違い、ボニーにとってウッディは彼女のおもちゃの一つであり、特別なおもちゃではないのでした。ボニーの遊びに「選ばれない」日も多くなっていました。

 

 

ウッディの成長、あるいは価値観の変化

これまでの「トイ・ストーリー」シリーズを通してのウッディの考えは「おもちゃの役割は子供を喜ばせること」、「自分はアンディのおもちゃである」というものでした。

 

本作でウッディは、その価値観に正面から向き合うことになります。

過去作品においても、ジェシーや3の敵役・ロッツォなど、様々な理由で持ち主から見捨てられたおもちゃたちと出会ってきました。

そして本作では、1・2の時とは見違えるほどたくましくなったボーとの再会が、ウッディにとってのおもちゃの幸せ、自分の幸せについて考えるきっかけになったに違いありません。

 

自分は持ち主の一番のお気に入りではないということ、一方で自分がボニーを守らないといけないという使命感からか、物語序盤〜中盤にかけてのウッディは違うキャラクターのように感じられました。フォーキーに固執する様子も、ウッディが取る行動は今までと変わらないにしても、多少違和感がありました。

 

ウッディがそのように悩む一方で、本作の敵役であるギャビー・ギャビーは、「子供から愛される」という従来のおもちゃの幸せを追い求めます。

 

現実世界のように、本作の世界でも、従来と新しい価値観とが入り交じっているように感じられます。気づけば今やウッディ達は、アンティークショップに置かれるほどに古いおもちゃでもあるのです。

 

ウッディの決断と内なる声(inner voice)

本作では「内なる声(inner voice)」という言葉が印象に残っています。物語中盤のウッディとバズの会話で出てきた言葉で、本作では、困ったことがあるとバズは「内なる声」(胸についている音声ボタン)に助けを求めます。

 

同じくディズニーの名作「ピノキオ」に登場するコオロギのキャラクターであるジミニー・クリケットを思い出しました。ジミニーは、ピノキオに命を授けた妖精から、ピノキオの良心(conscience)の役割を与えられました。ここでいう良心というのは、ピノキオに善悪(客観的にわかりやすいもの)を教えてあげる役割でした。

 

トイ・ストーリー4でウッディが突きつけられる選択は、「内なる声」に聞いてみたところで、それが本当に正しいかどうかは誰にも分からない問題です。それは善悪の区別でもなければ、同じ人にとっても決断を行う時期によって答えが変わり得るものです。

 

感想

トイ・ストーリー4」の評判は賛否両論分かれそうですが、個人的には良かった、そしてよくやった、と思います。2と3で薄々と感じつつも目をそらしてきた「おもちゃの幸せ」という問題についにウッディを向き合わせたことが凄いと感じました。

 

この場では書きませんが、最後の結末には100%納得はできませんし、「トイ・ストーリー」シリーズに対して何を求めるかによって、ラストシーンに対する好き嫌いはあると思います。

 

 

目的を探す旅(『或る「小倉日記」伝』松本清張)

 松本清張の短編集『或る「小倉日記」伝』(新潮文庫)の表題作であり、芥川賞受賞作です。

 北九州の小倉(こくら)を舞台に、主人公である田上(たがみ)耕作が、森鴎外が小倉に住んでいた3年間を記した「小倉日記」を探し求めた一生を描いた小説です。タイトル中に「」(かっこ)が使われる小説は珍しいですね。

 

登場人物とあらすじ 

◆田上耕作:

主人公。学校の成績は優秀であったが、体の一部が麻痺していてうまく動かすことができず、うまく喋ることも苦手な青年。そのせいもあり、知らない人からみると木偶の坊に見られる。父親を幼くして失い、母・ふじに女ひとりで育てられる。成人してからは多くの仕事につくも、身体的に障害があることも原因で続かない。ふじの内職と家賃収入で貧くも生計を立てる。

◆江南:

耕作の生涯中ただ一人の親友。文学青年で、耕作に森鴎外を教える。

 

 ある日、森鴎外全集が出版される。しかし、「小倉日記」という、森鴎外が3年間北九州の小倉に赴任していたときの日記が見つからないとのこと。

 小倉日記を補完することこそ自分の使命なのではないかと思った田上耕作は、森鴎外にゆかりのある人を探し、ゆかりのある場所をめぐる。途中で何度も「自分のしていることに意味はあるのか」という疑問にぶつかりながらも江南や母ふじの励ましを受け、探索を続ける。

 しかし、戦後の貧しい時代であることも重なって、耕作の体もしだいに弱っていき、寝たきりの生活になってしまう。彼の手元には、膨大な量の彼が集めた「小倉日記」がある。
 彼にはまだ、自分の体が良くなる、という確信があった。治った後のことを空想しては楽しんでいるように見える。耕作は息をひきとった。

 翌年、東京で鴎外の一族が「小倉日記」の原本を発見する。田上耕作が、この事実を知らずに死んだのは、不幸か幸福かわからない。

 

感想

この小説は、やはり最後の一文に尽きると思います。

彼が一生をかけて探し求めた「小倉日記」が東京に眠っていたという事実を生前知らなかったこと、果たして、彼の一生は幸せと言えるのか。

 

本人にしか分からない、と言ってしまえば話はそれでおしまいですが、彼の一生はきっと幸福であり、「小倉日記」の原本が発見されたことに対して、心から喜ぶことができるのではないでしょうか。

 

なぜかと言うと、小倉日記が発見されることが目的でありながらも、次第にその探索作業自体が生きがいと感じるようになったのだと考えるからです。

 

就職活動などで使われる性格診断の、「結果とプロセスのどちらを重視するか?」という質問を思い出しました。私は結果が大事だと答えることにしてはいますが、結果のためにはプロセスが必要であり、その逆も然り、そもそもそれらは相反するものではないと考えています。

 

テレビに出るようなすべての成功者に対して、つよがりでも嫉妬でもなく、自分もそう生きたいとは思いません。しかし、彼のような生き方には憧れを感じます。

 

八百万の話(『古事記』石ノ森章太郎)

中公文庫出版「マンガ日本の古典」シリーズの「古事記」。作者は石ノ森章太郎です。

 

前々から古事記を読んでみたいと思っているのですが、最初から原本を読むにはハードルが高そうなので、まずは漫画からと考え購入しました。

石ノ森章太郎の「マンガ日本の歴史」は小さい頃図書館で借りてよく読んでいた記憶があり、個人的に懐かしさを感じます。

 

そもそも古事記が上中下の3部構成であることすら知らず、このマンガ中では上の内容を扱っていることのこと。全体の流れは知らずとも、それぞれの話自体は馴染みのあるものばかりでした。

作者あとがきによると、「古事記」上巻部分がもっとも「古事記的・マンガ的」であったから、本書タイトルには「上巻」は付けず、「古事記」としたとのことです。 

 

登場人物、いや、登場神物は八百万の神々であり、このマンガ中だけでも数十に及びます。

 

神々の誕生から、イザナキとイザナミによる天地創造天照大御神の誕生と話は進み、神武天皇の誕生までが描かれています。

 

 本書の章立ては次のようになっています。 

1.国造り篇
伊邪那岐神命(イザナキ)と伊邪那美神命(イザナミ)による日本の創造

・黄泉比良坂(現世と黄泉の国の境界)の話

2.姉弟

天照大御神アマテラスオオミカミ)、月読命ツクヨミ)、建速須佐之男命(スサノヲ)の誕生

・天の岩屋戸の話

・八岐大蛇の話

3.根の国

因幡の白兎の話

4.神々の降臨篇

・海幸彦、山幸彦の話

 

わかりやすく描くために省力・簡略化された部分が多々あるとは思いますが、葦原の中国、黄泉の国の思想の部分に日本の民族信仰の本質があると、素人ながら感じています。

ボコノン教入門書(『猫のゆりかご』カート・ヴォネガット・ジュニア)

ハヤカワ文庫出版のカート・ヴォネガット・ジュニアの長編です。
主人公・ジョーナがボコノン教という架空の宗教に入信する道のりを描いた物語です。

 

あらすじ

主人公・ジョーナは『世界が終末をむかえた日』という原子爆弾が日本に落とされた日についてのノンフィクションを執筆するための準備を行なっていました。原子爆弾の発明者である故人のフィーリクス・ハニカー博士の息子に会うために、カリブ海にある架空の島「サン・ロレンゾ共和国」に向かいます。

 

やがてジョーナはボコノン教という宗教の存在を知ることになります。

ボコノン教とは、サン・ロレンゾ共和国では国家的に信仰が禁じられている宗教です。信仰が発覚した教徒は鈎吊りにされてしまいます。(鈎吊りについてもある秘密が判明します)

 

ボコノン教の教えは ユーモアや皮肉に満ちており、奇妙な専門用語がたくさん登場します。

例えば、ボコノン教徒は人類というものがたくさんのチームから成り立っていると信じており、そのようなチームを<カラース>、人をその中に組み入れる道具を<カンカン>と言います。

 

主人公・ジョーナはその後の経緯でボコノン教に入信することになるのですが、彼が元々執筆しようとしていたような衝撃的な事件に巻き込まれることになります。

 

感想

作中で頻繁に登場するボコノン教の教えや詩はナンセンスなユーモアに富んでいます。キリスト教圏で生活している人にとっては、きっとそれ以上の、自分の宗教との対比による面白さがあるのではないでしょうか。

 

サン・ロレンゾ共和国、ボコノン教、アイス・ナイン(物語において重要な役割を持つ融点45℃の物質)など、奇妙な架空の設定がてんこ盛りです。さらには、主人公を除いて、登場人物はおかしな人ばかりで、そのくせ宗教や科学、哲学、政治など、作中で扱われるテーマは多岐に渡ります。

 

本作、私はとても楽しんで読むことができたのですが、英語圏の人には分かるジョークやを多く見逃していることは間違いないと思います。例えば、タイトルでもある猫のゆりかごについての部分はいまいち分かりませんでした。それでも何か文章以上のものを読んでいるような感覚を味わえる、数少ない作品であると思います。