あるいは本でいっぱいの海

Or All the Seas With Books

主に書評ブログ。本、音楽、映画について書きます。

それは天気のせいさ(『うつヌケ -うつトンネルを抜けた人たち-』田中圭一)

 

 気づけば夏が終わりすっかり秋の気候になりました。ここ最近は季節外れの台風が来たり、日ごとに気温が激しく変わったり。そんな季節に特におすすめの漫画です。

 

 「うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち」という漫画で、作者は田中圭一さんという方です。この方の作品は当作しか読んだことはないのですが、表紙のように手塚治虫風タッチで描かれているのが特徴的です。

 

 作者の田中圭一さん自身、何度かうつ病にかかっては立ち直ってきた経験があるそうです。作中では「うつトンネルを抜ける」と表現されています。

 

 この漫画は、作者の田中圭一さん自身の経験を始めとする多くのうつ病から立ち直った人々にインタビューし、「なぜうつ病になったのか」「どうやってうつトンネルを抜けたのか」を描いています。

 

田中圭一さんの場合

 一言で「うつ病」と言っても、人によって程度やきっかけは違います。

 

 作者の場合は、美しいものや楽しいことに触れても何も感じなかったり、ただ漠然とした不安や恐怖に怯えたりといった症状でした。

 

 田中さんはうつ病から抜け出すために、何人もの医者の診断を受けたり、薬を飲んだりと様々な方法を試します。そして、彼はうつトンネルから抜け出すとてもシンプル(かつ難しい?)方法を見つけました。

 

 それは「自分を好きになる」ということでした。意識の持ち方の問題にもなりますが、ありのままの自分を肯定することでうつ病から立ち直ったのです。

 

 しかし、一度は治ったと思っていたうつ病も、完全になくなったわけではありませんでした。突発的にうつ病が再発してしまうのでした。その引き金となるのは何なのか?

 やがて、作者は自分のうつ病の原因に気づきました。

 

 作者の場合、原因は「激しい気温差」にありました。季節の変わり目の気温差の激しい日にうつ病が再発することが多かったのです。うつ病患者の全員に当てはまるものではありませんが、気温や気圧の変化が原因で体調を崩す人は多いようです。

 

 その「からくり」を知っただけでも、気持ち的には楽になるのは当然でしょう。手塚治虫ブッダみたいですね。

 

感想

 ここ最近「今の仕事をずっと続けられるか」「自分が本当にしたいことは何か」など、仕事やプライベートについて悩むことも多々あります。

 

 客観的に自分を捉え、憂鬱の原因を見つけ出すことが大切ということがわかりました。「それは天気のせい」「太陽が眩しかったから(これはまた違う)」など、理由がわかっていれば、不安は軽減するに違いありません。

 

 この漫画では作者以外に16人ものうつヌケエピソードが描かれており、誰が読んでも共感する話はあるでしょう。おすすめの一冊です。

犬は勘定外 感想 英国的ユーモア(『ボートの三人男』ジェローム・K・ジェローム)

 「ボートの三人男」ジェローム・K・ジェローム丸谷才一訳(中公文庫)です。表紙には書かれていませんが、「犬は勘定に入れません」という副題を持っています。

 

 本作のオマージュ作品、コニー・ウィリス犬は勘定に入れませんーあるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎ー」は以前読んだことがありました。

 

 「犬は勘定に入れませんーあるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎ー」では犬はもちろんのこと猫も重要な役割を果たします。しかし、本家「ボートの三人男」においては、犬は比較的勘定には入っていないと感じました。(あくまで比較的であって、今作で登場する主人公の飼い犬・モンモランシーは重要な登場犬です。旅の途中では、彼が大暴れするシーンなどの見せ場もいくつかあります。)

 

 あらすじはいたってシンプル。

 最近どうも気分がすぐれない”ぼく”が、休息と気分転換のために、二人の友人(ジョージとハリス)と飼い犬モンモランシーとともに、2週間のテムズ川の旅に出るのです。その旅の様子を、当時の英国の地理や歴史、文化を交えながらユーモアと皮肉たっぷりに描いています。 

 

 英国の地理や歴史に関する知識がないまま読んだのはもったいなかったとの後悔もあります。詳しい人が読めばさらに楽しんで読めるのではないでしょうか。

 いまいちわからない部分もありましたが、のんびりとした楽しい時間を味わうことができました。

沼地に咲く花のように(『沈黙』遠藤周作)

 新潮文庫出版の、遠藤周作の長編小説です。世界文化遺産に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が登録されたことがきっかけで読んでみました。

 

あらすじ

 史実に基づいて創作された小説であり、島原の乱後に日本に訪れた、ポルトガル人司祭の運命を描いてます。

 

 ポルトガル人司祭であるセバスチャン・ロドリゴとフランシス・ガルペの二人は、彼らの師であるクリストヴァン・フェレイラ教父が長崎での布教中に、拷問をうけ棄教したという知らせを受けます。

 本当にフェレイラ教父は棄教したのか?そして、弾劾される長崎のキリシタンたちを「救い」にポルトガルから日本に密航したのです。

 

 二人は、マカオで出会ったキチジローという日本人の案内で長崎の五島にたどり着きました。彼らは数少ないキリスト教司祭として、島に住む隠れキリシタンたちの歓迎を受けます。

 

 しかし、キリスト教が禁じられている日本では、二人は長崎奉行所に追われる身となります。二人は別行動をとり追っ手から逃げるも、やがて捕らえられてしまいます。ロドリゴの居場所を追っ手に密告したのは、二人を案内してくれたキチジローでした。

 

 フランシス・ガルペも捕らえられるのですが、目の前で幕府に捕らえられた信者が処刑される様を見せつけられ、思わず助けようと駆け寄るのですが、命を落としてしまいます。

 

 相棒であるガルペを失ったロドリゴは、長崎奉行所へ連れられて行きます。

 長崎奉行所に着くと、ロドリゴの師・フェレイラや長崎奉行井上筑後守と出会います。彼らに棄教するよう持ちかけられるも、ロドリゴは棄教することを断ります。

 彼が捕らえられている牢屋には、毎晩どこからか不快な鼾が聞こえてきます。やがて、ロドリゴはその音の正体を知り、棄教するかどうかの選択を迫られるのです。

 

この国は沼だ

  ロドリゴが、自分たちが信じる神と、日本人の切支丹たちが信じる対象は異なっているのではないか、と疑問に感じる場面があります。 

 やがて棄教した後のロドリゴ井上筑後守は以下のような会話をします。

井上筑後守「パードレ(ロドリゴを指す)は決して余に負けたのではない。この日本と申す泥沼に敗れたのだ」

ロドリゴ「いいえ私が闘ったのは、自分の心にある切支丹の教えでござりました」

 このロドリゴの発言は、神の「沈黙」に対してであることはもちろん、日本人切支丹に自分の教えが正しく伝わっているのかという疑問も含んでいたのではないでしょうか。

 宗教というものは、国やその土地に文化に密接に関係し、簡単に切り離すことは難しいのでしょう。しかし、キリスト教からすると泥沼かもしれない日本においても、独自の新しい文化として根付いたことは確かな事実です。

 

 さすが名作と呼ばれるだけあり、考えさせられる小説です。一度読んだだけでは物足りない、もやもやしたものが残ります。時間をあけて再度読み直したいものです。

古代生物のジレンマ(『霧笛』レイ・ブラッドベリ)

 ブラッドベリの短編集『太陽の黄金の林檎』(ハヤカワ文庫)に収録されている短編です。

 灯台守である「ぼく」と灯台守の先輩・マックダンが体験した不思議な夜の出来事を描いています。

 霧笛(むてき)とは、霧が深く視界が悪い時に、船が衝突しないよう音で警告するための道具です。その音は、まるで巨大な動物の鳴声のようでした。

 霧笛の音について、マックダンは言います。

一人ぼっちで夜泣きする大きな動物だ。何十億年という時間の端っこに坐って、おれはここだ、おれはここだ、おれはここだ、と海底に呼びかけているんだ。

 彼が言うことには、一年に一度、霧笛の音を仲間の鳴き声だと思い込み、その動物が灯台までやって来るというのです。そして今日がまさにその日でした。

 

 二人が灯台で霧笛を鳴らして待っていると、水面下から巨大な生物が姿を表しました。体長はなんと約3キロメートル。それは百万年前に絶滅したはずの恐竜の一種なのでした。

 

 マックダンは昨年も、同じように霧笛の音に連れられて灯台までやってきた古代恐竜を見ています。怪物は灯台の周りをぐるぐる周っていたそうです。100万年前に絶滅した種の最後の一匹は、もはやいるはずのない仲間を、今でも探しているのです。

 

 マックダンはものは試しにと、霧笛のスイッチを切るのですが... 

 

 ブラッドベリの短編の中でも人気の高いこの作品は、B級パニック映画なんかでよくありそうな展開ですが、幻想的で叙情的な作品です。

 

 霧笛の代わりにレーダーやGPSが使われるようになった今日では、古代恐竜が仲間を探しにやって来ることもありません。やって来たとしても、レーダーでは霧笛の時のような哀愁を醸し出すことはできないでしょう。

 

 

  マックダンが霧笛のスイッチを切った後に古代恐竜がとった行動と後日談が最後に語られます。ブラッドベリらしくもあり、らしくないようでもあるマックダンの最後の言葉は強く印象に残っています。

 

 『太陽の黄金の林檎』ですが、個人的にはブラッドベリの短編集の中では最高傑作です。追々、他の短編についても紹介する予定です。

良薬と毒薬(『海と毒薬』遠藤周作)

 第二次世界大戦末期の、九州大学付属病院で米軍捕虜を実験材料とした生体解剖事件を題材にした小説です。

 小説中では匿名で書かれていますが、夢野久作の『ドグラ・マグラ』の舞台でもありますね。

 

 戦時中、実際に起きた悲惨な事件を題材としているものの、その内容はフィクションとのこと。

 

 毎日のように空襲が人々を襲い、自分がいつまで生きていられるのかさえもわからないという状況下で起きた、極めて残酷な事件を取り扱った小説です。しかし、その根底には、日本人に共通する事柄が書かれているように見えます。

 

 教授と助教授、三人の助手と看護婦(本文の書き方に合わせています)らによって行われた生体解剖実験。そのうち三人の事件当時の状況や心情が、物語の中盤から最後にかけて独白形式で語られます。 二人は医学生の助手、一人は看護婦という立場でした。

 

 中でも、勝呂(すぐろ)と戸田という、二人の医学生の心情が対象的に描かれています。勝呂は患者を大事に思う心優しき青年です。生体解剖実験に対して、その背徳感を抱きながらも教授たちからの圧力に逆らう事ができず、現場に立ち会うことになってしまうのでした。

 一方で、戸田は人の痛みや苦しみに対して同情や共感といったことができない人間でした。さらには、子供の頃から罪悪感を持たず、悪いことをしてもバレなければ問題ないと考えているのです。

 生体解剖実験に対しても、患者の生死に興味を持たず、今後の医療の発展に役立つということだけが彼の頭の中にはありました。

 

 残酷な事件に関わった三人の、生体解剖に至るまでの経緯や心情の違いに深く考えさせられます。

 

 もし自分が勝呂医師の立場だとしたら、果たして断ることはできたでしょうか。彼が味わった、目標のためならば個を捨てるべきとでも言うかのような圧力は、第二次世界大戦とも通じるのではないかと思われます。ニュースに取り上げられることの多い、会社の不祥事の類も同じです。

  

 私の知識不足もありますが、物語中では聞き慣れない薬品名や医学用語がいくつか登場します。知らない人からすれば、どれが良薬でどれが毒薬かなんてわかりません。

 良薬も用法・用量を守らなければ毒薬となるように、その境界はとても曖昧な気がします。

 そしてその思想は、独白を描かれた一見普通の三人の人物に投影されているのです。

 

 遠藤周作さんの小説を読むのは、この『海と毒薬』が初めてでした。勝呂医師のその後が気になって仕方がないので、続編の『悲しみの歌』も読んでみようと思っています。