あるいは本でいっぱいの海

Or All the Seas With Books

主に書評ブログ。本、音楽、映画について書きます。

沼地に咲く花のように(『沈黙』遠藤周作)

 新潮文庫出版の、遠藤周作の長編小説です。世界文化遺産に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が登録されたことがきっかけで読んでみました。

 

あらすじ

 史実に基づいて創作された小説であり、島原の乱後に日本に訪れた、ポルトガル人司祭の運命を描いてます。

 

 ポルトガル人司祭であるセバスチャン・ロドリゴとフランシス・ガルペの二人は、彼らの師であるクリストヴァン・フェレイラ教父が長崎での布教中に、拷問をうけ棄教したという知らせを受けます。

 本当にフェレイラ教父は棄教したのか?そして、弾劾される長崎のキリシタンたちを「救い」にポルトガルから日本に密航したのです。

 

 二人は、マカオで出会ったキチジローという日本人の案内で長崎の五島にたどり着きました。彼らは数少ないキリスト教司祭として、島に住む隠れキリシタンたちの歓迎を受けます。

 

 しかし、キリスト教が禁じられている日本では、二人は長崎奉行所に追われる身となります。二人は別行動をとり追っ手から逃げるも、やがて捕らえられてしまいます。ロドリゴの居場所を追っ手に密告したのは、二人を案内してくれたキチジローでした。

 

 フランシス・ガルペも捕らえられるのですが、目の前で幕府に捕らえられた信者が処刑される様を見せつけられ、思わず助けようと駆け寄るのですが、命を落としてしまいます。

 

 相棒であるガルペを失ったロドリゴは、長崎奉行所へ連れられて行きます。

 長崎奉行所に着くと、ロドリゴの師・フェレイラや長崎奉行井上筑後守と出会います。彼らに棄教するよう持ちかけられるも、ロドリゴは棄教することを断ります。

 彼が捕らえられている牢屋には、毎晩どこからか不快な鼾が聞こえてきます。やがて、ロドリゴはその音の正体を知り、棄教するかどうかの選択を迫られるのです。

 

この国は沼だ

  ロドリゴが、自分たちが信じる神と、日本人の切支丹たちが信じる対象は異なっているのではないか、と疑問に感じる場面があります。 

 やがて棄教した後のロドリゴ井上筑後守は以下のような会話をします。

井上筑後守「パードレ(ロドリゴを指す)は決して余に負けたのではない。この日本と申す泥沼に敗れたのだ」

ロドリゴ「いいえ私が闘ったのは、自分の心にある切支丹の教えでござりました」

 このロドリゴの発言は、神の「沈黙」に対してであることはもちろん、日本人切支丹に自分の教えが正しく伝わっているのかという疑問も含んでいたのではないでしょうか。

 宗教というものは、国やその土地に文化に密接に関係し、簡単に切り離すことは難しいのでしょう。しかし、キリスト教からすると泥沼かもしれない日本においても、独自の新しい文化として根付いたことは確かな事実です。

 

 さすが名作と呼ばれるだけあり、考えさせられる小説です。一度読んだだけでは物足りない、もやもやしたものが残ります。時間をあけて再度読み直したいものです。