あるいは本でいっぱいの海

Or All the Seas With Books

主に書評ブログ。本、音楽、映画について書きます。

ウェンディの夢の国(『ピーターパンの島』星新一)

 『悪魔のいる天国』(新潮文庫)収録のショートショートです。ウェンディという女の子が主役であり、ピーターパンの島というタイトルはその名の通りネバーランドを連想させます。

 

 以下は簡単なあらすじです。

 ウェンディは海賊船に乗っています。同じ船に乗る大勢の子供たちと共に大歓声を挙げます。やがて船長がやってきました。その風貌はフック船長そのものです。
船は港からとっくに離れてしまいましたが、ウェンディ含め子供達に不安などありません。それは夢にまで見た光景で、これからどんな冒険が待ち受けているのか楽しみにしています。

 

 そんなウェンディは妖精を信じる女の子でした。しかし、科学の進歩により、妖精や怪物の類は存在しないということを完全に証明された時代では、空想というものは認められていません。それを信じる子供は特殊学校に入れられるため、親は必死でウェンディに妖精なんていないことを科学的に説明しました。しかし、ウェンディは妖精の存在を信じて疑いませんでした。

 

 ウェンディが入学した特殊学校では、空想を信じる子供が集まり、矯正するための場所でした。そこでは子供達は、「普通」に戻る見込みのあるかどうかで2つのクラスに分けられます。ウェンディは見込みのないクラスに入れられました。

 クリスマスになると、「海賊船にのって、インディアンの住む島に行きたい。そこで妖精や、魔法使いや、人魚などにあいたい」と子供達は心から願い、サンタクロースへ手紙を書きます。

 純粋な子供達の手紙を読み、特殊学校の教師はあるところへ電話をかけます。

 

 やがて、子供達の願いが叶う日がやってきました。サンタクロースに連れられ、子供達は夢にまで見た海賊船に乗り込みます。子供達が向かう先は...

 

 

 初めてこの話を読んだ時(小学生の頃でした)、ピーターパンではなく、ピノキオが遊びの島「プレジャー・アイランド」に連れていかれるシーンを思い出しました。ピノキオでは、その遊び島で悪さをし尽くした悪童たちがロバに変わっていくシーンがトラウマでした。この話は、ピノキオよりも残酷な結末です。

 

 これは、科学の進歩により妖精や怪物の類は存在しないということが完全に証明された時代の話です。しかし空想的な存在は、歴史や神話とは切り離すことのできないものです。科学者たちは妖精や怪物たちを過去からも追い出すことにしました。それでも彼らの存在は一部の人々の意識の中に残っていました。そこで科学者たちはある行動に出るわけです。

 

 こんな方法に意味があるとは思えませんが、いつかはこれが現実になるかもしれないという恐ろしさを感じます。

 

 もし仮に、小さな子供がファンタジー、あるいはフィクションに触れないまま育っていったとして、自ら架空の存在を生み出すものなのでしょうか。

 僕は妖精や怪物の存在(実在するかどうかは別として)をおそらくアニメや漫画で 知りました。もし、そのような存在に全く触れずに育ってきたとしたら、自分で思いつくかどうかは気になります。

  

 昔の人々は当時の知識では解明できない現象の理由として、様々な偶像を生み出してきた部分があります。だからといって、もし全ての現象を科学で説明できるようになったとしても、「想像すること」はなくならないと思っています。きっと「想像」に関しても、普遍文法のようなものが備わっているに違いありません。