あるいは本でいっぱいの海

Or All the Seas With Books

主に書評ブログ。本、音楽、映画について書きます。

カンガルーにうってつけの日(『カンガルー日和』村上春樹)

 聞くところによると、今の高校の教科書には村上春樹の小説が載っているんですね。
偶然機会があって、なんとこの「カンガルー日和」が掲載されていることを知りました。

 教科書に載せて学校の授業で扱う以上、試験をする必要が出てきます。ということは、その解釈には正解がないといけません。
 仮にこの物語から問題を作ったとして、正解なんてあるのでしょうか。まあこれは国語の全ての小説の読解問題に当てはまることなので今更の話ではありますが。

 

 あらすじはこのようなものです。

カンガルーの赤ちゃんが生まれたという記事を読んだ「僕」と彼女。1ヶ月後、ようやくカンガルーの赤ちゃんを見に行くのにふさわしい「カンガルー日和」が訪れた。僕」と彼女はカンガルーの親子を見物した。

 話はこれでおしまい。何か変わった事件が起きるわけでもなく、二人でカンガルーを見物ながら、村上春樹らしいユーモア交えた会話が面白いです。

 

 小説中のカンガルーは、元気に走り回ったり、意味もなく穴を掘ったりと、落ち着きもなく動き回っています。

 実際に僕が動物園で見たことがあるカンガルーとは様子は違っています。時間帯が悪かっただけかもしれませんが、彼らは走らなければ、穴を掘りもしません。ただただ集団でぐったりとお昼寝していました。その動物園には何度か行ったことはあるのですが、いつ見ても彼らはやる気のない動物でした。

 オーストラリアにはカンガルーの標識があるそうですが、本当に猛スピードで道路に飛び出してくるのか、動物園ののんびりとしたカンガルーたちからは想像もつきません。

 

 また、動物園に行く前に「まだカンガルーの赤ん坊は生きているかな?」と気にする場面や、親カンガルーが赤ん坊をお腹のポケットに入れることについての会話で、二人がしきりに「保護」という言葉を強調するところが気になります。

 

 他の多くの村上春樹作品にもあるように、二人には中絶をした過去があるのではないでしょうか。そして、「カンガルー日和」とは過去の悲しい出来事と向かい合うことを決めた日であり、新聞記事を読んで実際に動物園にカンガルーの赤ん坊を見にくまでにかかった1ヶ月という期間は、その準備のために必要な時間だったということになります。

 「カンガルー日和」を迎え、過去と決別できたかどうかは、二人が動物園から帰ろうとしたときのカンガルーの様子に喩えられています。父親カンガルーが「僕」で、母親カンガルーが彼女です。

 この解釈も考えればキリがなさそうですが、その後の「久し振りに暑い一日になりそうだった」という文から、わずかでも心が晴れるような良い兆しが見えたことだと思います。

 

 この小説の彼女は「ねじまき鳥クロニクル」のクミコに似ているような気もします。もしかしたら二人は中絶をした後ではなく、どうするか迷っている最中なのかもしれません。

 物語中には描写されていない勝手な想像ばかり書いていて、試験だったら0点の感想ですが、今回は以上です。